つがるの津軽三味線

私と坊さま三味線、そしてボサノバ

私は津軽三味線の演奏者ですが実は私が目指しているのは、昔、坊様(ぼさまと言います)三味線と呼ばれていた津軽三味線の元になった盲目の門付け(かどずけ)芸人達が弾いていた三味線の奏法です。
では坊様とはなんでしょう?
江戸時代になると思いますが当時盲目の人達は生きていくためには主に按摩になるか芸人になるほかなかったようです(越後ゴゼや琵琶法師等)。
そんな芸人達を津軽ではボサマ(坊様)と呼び乞食と同じ意味合いで使っていました。 彼らは差別を受けながらも一生懸命芸を磨き精進しました。三味線、横笛、尺八、唄、語り、できることはなんでもやったようです、その中でも三味線は後に津軽三味線にいたる独特で情熱的な奏法を開発したのです。
私はそんなボサマたちの歴史と音にとても引き付けられてきました。
そんな私は青森県青森市出身です。
物心ついたときから津軽三味線を聴いて育ってきました、しかし長ずるにつれロックやジャズに魅かれギターやベースを弾くようになり、成人してからはジャズベースのプロとして東京で活動していましたが自分の音楽の原点は津軽で聴いていた三味線にあるんじゃないかと思い定め、十四年前に津軽三味線に転向しました。
そしてボサマ達の気持の一端でも分かれば少しは本物の音に近ずけるのではと思い、十年前に全国を路上行脚で四年掛けて2周しました。
現在は行脚も続けていますが、同時に舞台やステージで活動しながら自分の音楽世界を創るために試行錯誤しています。
三味線と私が大好きでやってきたジャズやボサノバ、サンバとの融合をしたいと考えています。しかし私が思うに今の津軽三味線はジャズに乗らないのです、そこでキーポイントになるのが坊様三味線だと思っています。
では今いうところの津軽三味線と私の考える坊様三味線はなにがどう違うのかと言う事になりますが、それには津軽三味線の歴史から話さないとなりません。
詳しいことは津軽三味線と坊様の稿で紹介します。さて、いいましたように坊様三味線は乞食三味線と馬鹿にされ否定されてきたという歴史があります。
もちろんいまの津軽三味線も坊様三味線の流れのなかから生まれたものではありますが、坊様独特の三味線はいま消えかかっているといってもいいでしょう。
いまの津軽三味線は民謡の伴奏音楽として完成されてきたものであってもともと門付するために創られてきたものと違うものがあります。
では何が違うのかと言いますと専門的になりますがそれは坊様三味線のもつ独特のリズムにあると思います。
民謡というのは2拍子です。そのなかで曲によって色々なリズムでの取り方をしますが基本的に頭打ちのリズムです。
しかし忘れさられ様としているある種の坊様三味線は複雑なシンコペーションリズム(それにはちゃんとした理由があります)をもっています。
このシンコペーションがボサノバやジャズにじつにフィットすると私は思っています。
まだ試行錯誤の段階ですが、私なりに三味線が響くような曲を作曲してバンドを編成(ギター、ウッドベース)して活動を始めました。ライブも4回程しました。

ぼさま(坊様)の話

[坊様・仁太坊の誕生]

*坊様(ぼさま)「ぼうさまが津軽弁では訛って短くなります」
昔、津軽地方で目が不自由になってしまった男性が三味線を演奏しながら家々を門付けしてわずかの供物をもらって歩いていた人々がいました。
津軽地方ではそんな人達を坊様(ぼさま)と呼んでいました(三味線を持った坊主頭の座頭市をイメージして下さい)。
津軽三味線はそんな坊様達の中から生まれた音楽です。
津軽では坊様とは乞食と同意味でした。
彼らは生きていくために必死で芸を磨き三味線の技術を磨いていきました。
現在では津軽三味線は津軽民謡の伴奏音楽として存在していますが、坊様時代は聴衆が喜んでくれる物ならなんでも芸にして演じていました。
そんな津軽三味線の原型を創ったのはある一人の坊様です。
名前を仁太坊(にたぼう)といいました。
江戸幕末生まれで本名は神原村(かんばらむら)の仁太郎(にたろう:明治になり秋元仁太郎)といったそうです。
幼少にして病で盲目になり生きるために門付芸人になりました。
彼は江戸時代の身分制度のなかでは最下層の生まれでした(身分外)そのために正式に三味線を習うことも正式な舞台に上がることもできませんでした。
子供時代に神原村にやって来た流れゴゼ(越後地方[新潟県]にいた盲目の女性芸人)に習ったそうです。
後は独学です。
奇跡的に彼の音曲の一部が語り継がれていてそれを弾いてみたときに仁太坊の心に触れたような言い知れない感動をおぼえました。
彼はまぎれもなく天才だと思います。
さて彼は10代後半になり(両親はすでに亡くなっていました)三味線と笛、尺八をもって門付に歩きました、一軒一軒家を回りながら一握りの米を恵んでもらうのです。
最初に言いましたが、その時代目の見えない芸人は坊様(ぼさま)と呼ばれていました、だから彼は仁太坊(にたぼう)と呼ばれました。
言い伝えではそれこそ勝新の演じる座頭市にそっくりだったそうです。
やがて彼も結婚します。
その結婚が彼の三味線を大きく変えることになり現在の津軽三味線が生まれることになったようです。


[仁太坊の結婚と津軽三味線の誕生]

仁太坊の結婚相手はイタコと呼ばれた盲目の霊能者でした。
お互い盲目ということで夫婦になったようです。イタコとはいわば女性のシャーマンです(恐山での活動が有名)。
イタコになるためには相当厳しい修行と霊能者としての素質が求められたようです。
ですからイタコになれたのは本当に選ばれた一部の者だけだったようです。
仁太坊の妻になった彼女の名前はマンといいました、とても優秀なイタコだったそうです。
マンと一緒になった仁太坊は持ち前の好奇心と向上心でイタコの修行に興味をもったようです。
というのは、イタコは口寄せをする時は無我の境地になり、まるで神仏に導かれるような状態になる必要があります。
仁太坊は本物の三味線を弾くためには自分も無我の状態で弾くことが必要だと考え、イタコがやるような厳しい修行を体験し習得したいと考えたようです。
そこで彼女にイタコの修行を体験したいと頼みこんだそうです。
それは七日間に亘って断食をしながら不眠不休で祝詞をとなえ、かつ三味線を弾き笛を吹き続づけて、とうとう最後には失神してしまうという過酷なものだったようです。仁太坊には霊的な素質があったのでしょう。見事に達成したそうです。そして失神から目覚めて三味線を手にしたとき津軽三味線の基本となった撥で糸を叩き付ける奏法が生まれたのだそうです。
そしてその時から霊的な能力も開花したようです。その後かれは占いや予言のようなことも始めたようです。
それにしても津軽三味線の誕生はなんと劇的ではありませんか。
だからこそ人々を魅了してやまない音楽に思えるのですが。


[私の探していた音:長作坊や初期の白川軍八郎師]

撥を叩きつけて弾く三味線を開発した仁太坊は人気者になったようです。
門付けも夫婦で行くようになり順調な生活が続いたようです。
一方、当時は病気や質の悪い炭の煙のために目をやられて盲目になる子供が多かったようです。そのためにそうした子供を持った親は将来を考えた時に按摩の勉強をさせるか、または坊様にさせるしか方法がない時代でした。
特に仁太坊の住んでいた神原村の近隣の子供達の親達は、せめて人気者の仁太坊のように生きられたらという願いをこめて仁太坊の元に弟子入りをさせたようです。
その時に仁太坊が盲目の子供に教えたという練習曲が奇跡的に伝えられていて、私のレパートリーになっています。
そして仁太坊から習った多くの子供達のなかから天才的な奏者が何人も生まれ、その弟子達が津軽民謡と津軽三味線を大きく発展させていくことになりました。
その中でも仁太坊の四天王と呼ばれた四人の弟子達がいます、名前は喜之坊(きのぼう)、長作坊(ちょうさくぼう)、嘉瀬の桃(かせのもも)、そして白川軍八郎(しらかわぐんぱちろう)といいました。
*仁太坊最初の弟子である喜之坊の弟子達の系統からはたくさんの大きな家元や皆さんが知っている有名な叩き三味線の名演奏者が生まれています。(故、木田林松栄師など)
*嘉瀬の桃(黒川桃太朗)は唄の大名人でそれまでの素朴な津軽民謡を今の様な洗練された芸術性の高い唄に変えた人物です。
*白川軍八郎は仁太坊が60歳で取った最後の弟子で、まさに超絶技巧三味線の元祖ともいうべき天才テクニシャンでした。現在の津軽三味線の奏法テクニックのほとんどは彼によるものです。(CDが出ています)
*そして長作坊(明治7年生)ですが、彼の系統にいるのが高橋竹山師(孫弟子にあたり,直接には会ってないと思われます)です。
長作坊の三味線の特徴は音澄み(ネズミ)といわれる音の綺麗さと歌うような旋律の美しさ、そして変拍子の独特のリズム感から生まれる緊張感のある演奏スタイルです。
それまで三味線はあくまでも語り物や唄の伴奏楽器だったのですが、彼の出現によって三味線が初めて伴奏楽器だけでなく独奏楽器としての評価がされたようです。かれは一躍人気者になり多くの健常者の弟子も出来て一世を風靡しました。ところが長作坊は津軽三味線に多くの影響を与えたにもかかわらず彼の名前は忘れられ彼の演奏スタイルも直接の継承者が途絶えてしまい(竹山流は竹山師のオリジナル)、正確な音曲が分からなくなってしまったのです。
私はずーっと竹山師の初期の演奏から推測するより方法がないと思っていました。
(私は最近やっと長作坊節の一部を見つけました)
なぜ彼の音曲は途絶えてしまったのでしょう?
それは彼が盲目の坊様だったからです。この話は次にします。
ところで仁太坊にはどうしてこんなに多彩で演奏スタイルの違う弟子達が生まれたのか不思議ではありませんか?
それが私が仁太坊が大好きな理由のひとつですが、仁太坊は弟子たちに日頃から「けっして人のまねをした演奏をするな、自分で工夫して自分にあったスタイルを考えなさい」と教え諭していたそうです。
ですから弟子達はそれぞれ一生懸命自分の奏法を考え続けていたわけで。
長作坊が自分のスタイルを作り上げた後にそれを聴いた仁太坊がその素晴らしさに絶句したそうです。


[白川軍八郎師(仁太坊最後の弟子)について]

「津軽三味線の神様」と呼ばれていた素晴らしい弾き手がいました。
名前を白川軍八郎といいます。
生まれは明治42年、奇しくも太宰治と同年生まれで同郷です。
今年(2009年*前ブログから引用の為)はこの二人の生誕100年ということで地元の青森県五所川原市金木町は盛り上がっているそうです。(ちなみに高橋竹山師は明治43年生まれ)
軍八郎師は4歳の時に疱瘡に罹り失明しました。9歳のときから5年間仁太坊(当時60歳)の内弟子になりました。
彼は生活に困らなっかったにもかかわらず、家族の反対を振り切って自分から仁太坊の弟子を志願したそうです。
そして仁多坊の弟子になった彼は必死に三味線を勉強し、瞬く間に仁多坊をして教えることがないと言わしめる程上達したそうです。
そんな彼をい仁多坊はまるで自分の孫のように可愛がったそうです。
やがて彼は「神様」と呼ばれるほどの超絶なテクニックと音楽性で現在の津軽三味線の演奏スタイルの原型を作りあげたのです。
そして白川軍八郎の名は有名になっていきました。
やがて彼は自分の名前を冠した一座を率いて興行をするようになりました(当時歌い手ではなく三味線奏者で看板を張ることは異例な事でした)。
そんな中で彼は昭和37年興行先で患い入院します。
そこで彼の代わりに演奏を担当した高橋竹山師が彼を看病するのです。
しかしその年の5月とうとう友人でもあった竹山師に看取られつつ53歳でこの世を去ります。
なんということでしょう。その翌年、昭和38年高橋竹山師のレコードが発売される事になります。
そしてそれが日本中に津軽三味線ブームを引き起こすことになったのです。
*ちなみに昨年(2008年*前ブログから引用の為)の5月に白川軍八郎生誕100年を記念して戦前録音された数千枚のSPレコードの中から厳選した20曲をCDにしたものが限定復刻プライベート盤として作られました。最近それがわかり急いで入手しました 。
私がずーっと求め続けてきた、漠然と心の中にあった私の津軽の音が詰まっていました。
やっと出会えました。感無量です。


[門付けの坊様三味線から民謡の津軽三味線へ]

仁太坊の創った坊様の三味線は乞食三味線と蔑まれる一方で人気者にもなりました。
特に長作坊や長作坊の高弟・名手梅田豊月(うめだほうげつ:民謡の伴奏・唄付けスタイルを確立)や仁太坊の最初の内弟子の喜之坊(きのぼう:元祖仁太坊直伝の叩き三味線の継承者)とその弟子達のように、レベルの高い弾き手にはファンも増え彼らから三味線を習う健常者の弟子が青森中にたくさん現れました。
しかしそれは同時に芸を奪われる結果をも招くことになったのです。 坊様たちから三味線を学んだ健常者達は物乞いのための門付け三味線ではなく本格的な民謡の三味線を追求して行きました。 そして津軽民謡の三味線を弾くプロが出現することになります。
こうして津軽じょんがら節などの民謡スタイルが確立していきました。
さらに民謡の一座(唄会一座といいます)がたくさん出来て爆発的な人気を博すようになったのです(歌い手と踊り手がいて紋付を着た三味線奏者によって組まれることが多かったようです。特に踊りは盲目の坊様には無理なことでした)。
そうした時代の変遷のなかで坊様達は忘れ去られ没落していくのです。 明治時代の後期頃から坊様の存在も否定されて行くことになりました(特に家族にとっては身内に坊様がいることは恥ずべき事であり、隠すべき事だったのです)。
津軽の人々にとって彼らの存在と音曲は津軽の歴史から抹殺してしまいたい事だったのです。
そうした風土の中でいつしか仁太坊や長作坊達の名前とその演奏スタイルは忘れさられていきました。
*******悲しいエピソードがあります******
「長作坊に三味線を習った弟子の一人(健常者)が民謡三味線のプロに改めて習うべく覚えた曲を演奏したところ、そのプロは[そんな坊様の三味線は恥ずかしいからやめろ]と言われ直されたそうです。
そしてスタイルを変えるのにとても苦労したそうです(それほど違う奏法だったのです)。
そして後日、長作坊の前で修正した三味線を披露したとき長作坊は[お前もか!!]といって嘆いたそうです(多くの弟子達が転向していったようです)。