つがるの津軽三味線

プロフィール1

青森県青森市出身。
ジャズベースのプロだった経歴をもつが、15年前津軽三味線に転身する。
それ以来津軽でもすでに失われてしまった創成期の津軽三味線の音を探して研鑽を重ねている。
また、津軽三味線を創作した当時の門付け芸人達の思いの一端でも知りたいと考え、12年前に全国路上演奏を始める。
そして4年を掛けて全県を2周した。
さらに戦前の録音等から津軽独自の音曲を探して発表などもしている。
現在は独自の津軽三味線奏者として、舞台・ステージ・TVCM等でも活躍。
今まで浅草の舞台に定期出演したり国立演芸場・各地のイベント・コンサート出演。
全国のホームや養護施設等でも活動している。

*津軽三味線奏者・古典流代表
*ボ様の会・主宰
*EYS音楽教室講師

プロフィール2

小学生時代には津軽三味線を、学生時代にはロックギターやジャズベースを弾き、長じてプロのジャズベーシストとして東京でライブハウス出演やレコーディング活動をする。
しかし、自分の音楽表現の原点は津軽の三味線にあると気が付き18年前にジャズをやめる。
そして16年前津軽に戻って本格的に津軽三味線を始めるが現在の津軽三味線は自分が幼い頃に聴いていたものは随分違うことに気が付く。
昔聴いていた音はまるで初期のアメリカンブルースのように泥臭いがどこか魂を揺さぶるものだった記憶があった。
その音曲を探す為に出来る限りのCDと生演奏を聴いたが求める音はなかった。
故郷の津軽にももう無くなっていたのだ(後年、差別のために消えてしまったことが判る)。
そこで昔の津軽三味線は門付けの三味線だったことから、自分も門付けをしたら何か学べることがあるのではないかと思い、日本全国を路上門付の旅に出る。
旅は延べ10年以上にわたった。
やっとのことで求める音曲に出会えたのは、なんと昨年(2010年)の事だった。
昨年、記念盤として一部発売された戦前の復刻盤を聴いたとき、紛れもなく幼少時代に聴いていた音、探し求めていた音がそこにあった。
それは坊様(ぼさま)と呼ばれ蔑まれていた盲目の門付け芸人達の音曲だった。
現在の津軽民謡三味線とは大きく異なる、より高度なテクニックと複雑なリズムを駆使したまさに創成期の緊張感と躍動感、そして情念に溢れた音楽だった。
津軽三味線の本質が詰まった音楽だった。
旧いけれども、同時に最新の音楽だった。
日本人にしか出来ない、日本独自の音楽だった。
現在は国立演芸場、浅草の舞台、音楽堂、様々なステージなどに出演しながら津軽三味線を教えてもいる。
とにかく今は失われてしまった昔の坊様の津軽三味線の音曲を通して自分の心の中の音楽を復刻しようと日々演奏活動を続づけています。


私の門付の話

[其の一]

私が10年程前から日本中ストリートライブをしてきたこと、そして今も旅に出てはストリートで演奏しているという話はしましたが、その訳はストリートで演奏することが何よりも勉強になるからです。
その理由をお話したいと思います。
私が昔東京でジャズをしていた話はしました。
その頃の事ですが、たとえば私はボサノバが大好きで一生懸命練習しました、しかしブラジル人が演奏するサンバやボサノバを聴くと涙が溢れてくるのですが私がいくらがんばって演奏しても何の感動もしません。
ごくたまにいい演奏だと褒められることがありましたが、なぜいいのか当時は理解できませんでした。(いま思えば私のベースが津軽三味線の様に鳴っていたのだと思います。)
そして悩んだ末にジャズという音楽は私にとって好きな音楽であっても自分の心から湧き出す音楽ではないと思い至ったのです。
そしてもしかしたら私の心身に染み付いた音は津軽三味線かもしれないと思い、改めて津軽三味線を聴いたとき私の心の琴線に響いたのが初代高橋竹山師の音でした。
師の三味線の音は私が物心付いた時から毎日のように聞くともなく聞いていました、いや師の三味線を子守唄にしていたといっても良いほどです(当時青森ではラジオでいつも津軽の唄や三味線が流れていました)。
その音とリズムの深さにまさにジャズを感じました。
きっとこれが自分の音楽に違いないと思い青森に帰り三味線を手にした時に、それを確信しました。
しかし青森に帰りいろんな人達の音を改めて聴いた時に私が感じたことは現代の津軽三味線は私が育った青森の風土の音、私の体内にある津軽の音とはどこか違うということでした。
ですから誰か先生について習うという選択は(習おうかどうしようかと本当にずいぶん悩み考えました)しませんでした。
私の漠然と感じていた音はどこにあるんだろうかと、雲を掴むような状態のなかで私が選択したのが昔の坊様の様に旅をしてみたら何か掴めるかもしれないという思いと、竹山師が人々の胸を打つのは旅のなかで生きるために必死で音を求めてきたためではないかという思いでした。
もちろん今の時代は当時の竹山師や坊様の活動していた過酷な時代とはまるで違うことは解っていますが、それでも何かヒントで掴めないかと思いで旅を始めてみました。
そしていまやっとその答えがわかった様に思います。
私が探し求めていた音曲は確かに昔あったということ、そしていまは失われてしまっているということでした。
それがどんな音曲で誰によって演奏されそして消えていったのかは、このブログの「坊様の話」のなかでこれから書いていこうと思います。
そして旅のなかでなにを感じ何を学んだかは次にお話します。

[其の二]

私がジャズをやめて津軽三味線に転換したときには、津軽三味線の世界には大きく2つの系統がありました(違っていたらご指摘ください)。
一つは高橋竹山流派にみられるソフトなタッチで歌うように旋律をかなでる奏法。
もう一つは叩き三味線といわれるように撥を叩きつけて迫力ある音を出すことを身上とする流派(故木田林松栄師に代表されます)。[こちらは数え切れないほどの流派があります。]
さて私は当時自分がどんな三味線を弾きたいのか解からずに困ってしまいました。
一応代表的な諸先生達の音曲を聴いてみました。
勿論先生達は洗練された素晴らしい三味線を奏でる名手の方たちばかりで感動したのですが、ただ私の中にある津軽の音とどこか違うなと感じたのです。
「オイラのなかに漠然と存在する津軽三味線はもっともっと土臭く、まるで黒人のブルースのようなものだよな~」と感じていたのです。それではと、相当いろいろ聴いてみたのですが、やはりどこか違うのです。
なにが違うのか雲を掴むような感じでいた。
ただその中で私の心の琴線の近いところに触れてきた音が高橋竹山師の音でした。
(もっとも子供時代に毎日聴いていたわけですが)それにジャズをやっていた時にこだわり続けたリズム、自分なりにとことん追求していくなかで見つけたタイム感覚・リズム感覚がまさに明治生まれの高橋竹山師の中に存在していたのを発見したときにはビックリしました。
これはブルースでありジャズだ!!!いや津軽三味線はそれらと同じ何かを持っている音楽だ!と、そう思ったと同時に竹山師のすごさに戦慄すら覚えました。
そして自分が懸命に求めてきたリズム感の到達点に門付けの三味線があると感じたのです。
俺はやっぱり津軽で育った津軽人であるということを改めて感じさせられたのです。
(其のあたりは「卵が先か、鶏が先か」かも知れませんが)
しかし、そこで竹山流を習いに行くという選択はしませんでした。
2つ理由がありました。
1つは竹山流の撥使いも魅力的だけれどやっぱり叩き奏法にも自分の感性が共鳴するところがあるしな~。
(それがなぜかは最近分かりました。詳しくは初期の白川軍八郎師という項を書くつもりです。)
2つ目は竹山師の三味線は師の人生から生まれたもので型を追っても私には到底あんな素晴らしい音を出すことは出来ないだろうと思えたことです。
ただ竹山師が若い時に門付けの三味線で生活されていたことは青森では有名な話でした。
そして師の魂を揺さぶるような音は門付けの中から生まれてきたのではないだろうか?と思ってしまいました。
そして「オイラも門付けの旅をしたら雲ではなく、なにか掴めるかも知れないな~」と。
まあ単純といえば単純な男ですねえ~。